雑誌正論掲載論文
小笠原を守ってきた日本人 〝復帰〟50年を機に領土の重みを考える
2018年06月25日 03:00
東海大学教授 山田吉彦 月刊正論7月号
日本の海は広い。国家の主権が適用される領海と経済的な権益が認められる排他的経済水域を合わせると約447万㎢におよび、この面積は世界で6番目の広さである。排他的経済水域だけの面積は約385万㎢である。その内、小笠原諸島が基点となる排他的経済水域の面積は約119万㎢と広大であり、全体の約31%を占めている。この広大な小笠原諸島海域は、近年、海底資源の開発で着目されている。今年、東京大学と早稲田大学の研究チームは、小笠原諸島の南鳥島近海に全世界が数百年間利用することが可能なレアアースが埋蔵されていることを報告した。また、兼ねてより小笠原諸島内の火山列島付近には、白金を含む海底熱水鉱床が存在することも知られている。小笠原諸島の海は、宝の山なのだ。
この小笠原諸島には、国家の主権を巡る波瀾万丈と言える歴史がある。
今年6月26日、小笠原諸島は本土復帰50周年を迎える。小笠原諸島は太平洋戦争終戦後、米軍が進駐して「ボニン諸島米国軍政府」を設置し、統治した。その後、島は米国流の社会となり、ベッドでの就寝、フォークとナイフの食事、島の小、中学校では英語による教育が行われていたが、1968年4月、日米政府間で小笠原復帰協定が結ばれ、同年6月に施政権は日本国政府に返還された。
小笠原諸島は、伊豆諸島の南の太平洋上に広がる30ほどの島嶼の総称である。行政区分は、東京都小笠原村であり、村役場や東京都小笠原支所が置かれている「父島」が中心となっている。「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、島の生物は独自の進化をしており、固有の生態系を持ち、2011年には、ユネスコの世界自然遺産に指定された。そのため、環境保護に力が入れられるとともに、観光客も増加している。小笠原諸島で人が暮らすのは、父島、母島と硫黄島、南鳥島の4島だけである。父島にはおよそ2000人が暮らし、母島は500人ほどが暮らしている。硫黄島と南鳥島は、一般住民は居らず、海上自衛隊をはじめとした公務員だけが交代で暮らしている。父島、母島には飛行場も無く、島を訪れるためには東京の竹芝桟橋から1週間に1便程度出航する「おがさわら丸」に乗り、父島の二見港まで24時間の船旅となる。
小笠原諸島の島々は個性豊かで、現在も活発な火山活動が続く「西ノ島」のほか、東京から南南西1700kmにある日本の最南端「沖ノ鳥島」、東京の南南東1800kmにある日本の最東端「南鳥島」などが点在している。太平洋戦争における激戦地として知られる硫黄島は、火山活動のため現在も隆起を続けている。
小笠原諸島における国家主権は、特異な変遷をみせている。江戸時代初頭、日本人が漂着し、その存在が報告されると、幕府は直ちに調査団を派遣し、無人島であることを確認し、石碑を建て領土に組み入れた。その変遷の過程を島の歴史に合わせ紹介する。
小笠原諸島の名の由来は、1593(文禄2)年、信濃国深志城主の末裔小笠原貞頼なる人物が発見したという風聞による。小笠原貞頼は、豊臣秀吉に領地を所望したところ、新しい領土を見つけたら領地としてよいとの許可を受け、太平洋に冒険航海に出たという。
小笠原貞頼による発見は、史実と考えることは難しい。この話は、江戸時代の享保年間に貞頼の子孫を名乗る小笠原貞任という浪人が、幕府に対し「巽無人島記」という貞頼が島を発見したことを記した文書を示し、領地を認めるとともに、島への渡航の許可を願い出た。一時は探検航海の許可が下りたが、不審な点が多いことから、当時の江戸町奉行大岡越前守忠相が調べ、小笠原氏の家系図には、小笠原貞頼なる人物は存在していないなどの点から虚偽の訴えであるとの裁定を下した。貞任は、庶民を惑わせた罪人として、私財没収のうえ重追放となった。
小笠原諸島の発見には諸説がある。最も古いとされる記録では、1543年スペインの軍艦サン・ファン号が発見したといわれるが、その島が小笠原諸島のどの島と特定されるか、そもそも小笠原諸島であるのか、記録は曖昧である。1639年にオランダ東インド会社のエンゲル号、フラフト号の船団が発見したとの説もあるが、海上から見ただけであり不確定な要素が多い。
日本国内では、1669(寛文9)年に出帆し、島に漂着したみかん運搬船の乗員の記録がある。
阿波国の船主勘左衛門の持つ船が、紀州和歌山からみかんを積み、荷主・長右衛門らを乗せ江戸に向かった。しかし、この船は、1670年1月6日、遠州灘で遭難し南方へ流され一か月以上漂流し、現在の母島と思われる無人島に流れ着いた。船主勘左衛門は島で亡くなったが、残された長右衛門らは難破船の残骸などを集め、船を作り北へ向かって海に乗り出した。食料として魚の干物やウミガメを積み込んだという。一行は、南風を利用し、父島および聟島と思われる島経由で八丈島に到着することができた。八丈島に到着した日は、4月25日であった。その後、伊豆の下田に回航し、下田奉行所に漂流の顛末を報告している。この報告が、日本人が初めて小笠原諸島を発見した正式な記録となっている。この報告に興味を持った幕府は、その5年後の1675(延宝3)年4月、かつて東シナ海に君臨した松浦党の流れを汲む船員を中心とした30人ほどの調査員を「富国寿丸」に乗せて派遣した。調査団は、父島、母島の測量を行い、地図を作り、また、父島に碑を建てた。このことが、現在、日本が小笠原諸島を領土とする先占権の根拠となっている。
江戸中期の学者で、「海国兵談」を発刊し、沿岸防衛の重要性を説いたことで知られる林子平が1785(天明5)年に書いた「三国通覧図説」という地理書があるが、この書の添付図の中に小笠原諸島について、無人島と記載された。この三国通覧図説は、オランダ商館経由で欧州に渡り、欧州各国で翻訳されている。この地図などが無人島をブニンジマと記したことから、英語名では、ブニンが訛り、ボニンアイランズとなった。
1827年、父島に来航した英国軍艦ブロッサム号のビーチ艦長は、この島を新たに発見した島と思い込み、父島をピール島、母島をベイリー島、二見湾をポートロイドと命名し、英領であると宣言する標を残した。ビーチが島の発見を英国のサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)領事に伝えたところ、領事は捕鯨の拠点として島の活用を考えるようになった。このピーチ艦長の新島発見の報告は、英国では正式には取り上げられていない。
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■ 山田吉彦氏 昭和37(1962)年生まれ。学習院大経済学部卒業。埼玉大大学院経済科学研究科博士課程修了。専門は海洋安全保障など。第15回正論新風賞受賞。『完全図解 海から見た世界経済』(ダイヤモンド社)など著書多数。