雑誌正論掲載論文

西部邁 最後の夜 あの衝撃の死の謎

2018年03月15日 03:00

文芸批評家 浜崎洋介 月刊正論4月号

 先日、あるニュース番組で「西部邁自殺」のニュースを報じていた。が、それを見ていて驚いたのは、西部邁と何の関係もないアナウンサーが、「自殺はいけません」と纏めていたことである。掛け替えのない人の死を、会ったこともない人間が「いけません」の一言で括れるその神経が信じられなかった。しかし、その後も私は、この「自殺はいけません」という生命至上主義的な言葉を度々耳にすることになる。「自殺」と聞くだけで拒絶反応を示し、それを消極的にしか解釈しようとしない戦後日本人の想像力の貧困さと、そのニヒリズムと、その傲慢さとに、つくづく嫌気がさす思いがした。

 そんな時、本誌の菅原編集長から、西部邁の死について書いてもらえないかという話があった。しかし、既に短い追悼文を一つ、長めの追悼文を一つ書いていた私は、その時は、依頼を断ろうと思った。ただ、菅原編集長の「西部先生の死を、歴史的事実として書き記しておきたい」という言葉を聞いて、少なからず心が動いた。なるほど、この先、おそらく様々な臆測と評価に晒されるであろう西部邁の死について、その事実を記録しておくことは誰かがしておくべき仕事なのかもしれない。それによって、世間の要らぬ誤解から、少しでも先生の死を守れるのなら、その努力をしないという法はない。

 したがって、ここに記すのは、西部先生の追悼でもなければ、ましてや西部邁論でもない。西部先生の娘さんや息子さんから直接伺ったお話、あるいは菅原編集長や、その周囲の人間から聞き得た情報を綜合して、おそらく確実であろうと判断した事実を拾い、ご家族の了解を得た上で、私が書き記した「歴史」である。もちろん、客観的な歴史などというものがあり得ない以上、それは私の責任によって解釈された歴―史(順を追った―言葉)、西部先生の言葉を借りれば、ある程度まで真実だと思われる「物語」(hi-story)である。

 既に一部報道にもあったように、西部先生の「自裁」は徹底的に用意されたものだった。私個人としても「自裁」の話は一、二年前から聞かされており、少なくとも今年の春までには確実に遂行されるだろうと覚悟はしていた。とはいえ、それが一月だと思っていたわけでもなかったので、死の二日前に、知り合いから「実は一月十六日の夜、四谷で飲んでいた先生が浜崎を呼んでいた」との話を聞いた時も、まだ会えるチャンスはあるだろうと考えていた(痛恨の極みだが、十六日の夜、私は外出していて呼び出しの電話に気づかなかったのである)。が、結局、先生の酒場での「社交」は、この十六日が最後のものとなった。

 その後、先生が外出されるのは、四日後の二十日の土曜日のことだったが、それは、二十一日に「西部邁自裁」の報せが流れる一日前のことである。

続きは正論4月号でお読みください

■ 西部邁氏 日本を代表する保守思想家として有名。昭和14(1939)年、北海道生まれ。東京大学経済学部卒業。同大教養学部教授などを経て評論活動に。雑誌「発言者」「表現者」を創刊。TOKYO MX「西部邁ゼミナール」では司会を務めた。平成30年1月21日、東京都大田区田園調布5丁目の多摩川で、遺体で見つかった。

■ 浜崎洋介氏 文芸批評家。昭和53(1978)年、埼玉県生まれ。日本大学芸術学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム博士課程修了。西部邁氏が創刊した雑誌『表現者』で執筆、同誌をリニューアルした『表現者criterion』で編集委員を務める。著書に『反戦後論』(文藝春秋)など。