雑誌正論掲載論文
追悼特集 西部邁の死 我が好敵手への別れの言葉
2018年02月15日 03:00
評論家 西尾幹二 月刊正論3月号
人はおりふしに自らの歴史に深い闇を見る。たいていは行動力がそれを気づかせない。否、行動力のある人ほど闇の奥底の色は濃いのかもしれない。
西部邁氏はフェアーな人だった。私たちが一番頻繁に顔を合わせたのはテレビ朝日の討論番組、朝まで生テレビでだった。例えば外国人単純労働者の受け入れ是非をめぐるテーマが討論された場面などで、テレビ出演に馴れない私を西部氏は上手にリードしてくれたものだった。大島渚氏や野坂昭如氏等の名だたる仇役者たちから私を終始守ってくれた。その名だたる中に舛添要一氏がいた。私の位置から一番遠い席より手を大きく振り上げて私を指さして「このレイシスト!」と叫んだ。聞き咎め、窘めたのもやはり西部氏だった。場違いだろう、無礼な言葉は慎め、というようなことをたしか言ったのを覚えている。
それより前であったか後であったか思い出せないが、舛添氏と西部氏と私の三人がパリで落ち合って数日間を一緒に過ごす機会があった。今から約三十年前、一九八六年九月に読売新聞社主催の円卓会議が日本から七人、ヨーロッパから十二人の知識人を集めてパリで開催された。西部氏の「日本の産業の成功は文化の犠牲の上に成り立つ」という近代日本を否定するポジションペーパーが、ヨーロッパの出席者の間で人気を博した。日本の自動車生産台数が世界一になって六年目のこの頃、電子部門の日米ハイテク競争が取り沙汰され始めていた。置き去りにされかねないヨーロッパは日本の進出にひどく神経質になっていた。
当時のヨーロッパのメディアには、まるで異質な星雲からの未知の生物の出現のように日本人を扱い、日本の教育や労働慣行から休暇の取り方まで嘲る論調さえあった。西部論文の日本批判は彼らにとって渡りに船だった。私はあえて西部氏に異を唱え、反論した。二人の間で日本文化の是非をめぐる激しい論争が繰り広げられた。対立は四つのセッションのうち三つにまで影響した。日本人記者団からは「西―西論争」などと冷やかされたが、ヨーロッパ人の眼前で日本人同士が互いの主張をぶつけ合う光景は彼らの目には新鮮に映ったらしい。会議の最終日に議長のフランス人をして、今回は日本人が多様性を持つ国民であることを初めてリアルに感じさせた、と言わしめたほどだった。
二人の論争は明治以来の日本の西洋化=近代化をめぐる永遠のテーマにも関わっているので、簡単に終わる話ではない。それなのにここまで発言しなかった舛添氏が最後になって「本日の二人の論争は私のような若い世代にとってはもう終ったテーマであって、世代の差を感じさせるばかりだ」と言い出したのには驚いた。いったいこの種のテーマに世代論を当てはめることは可能であろうか。え? と私は耳を疑ったほどだった。
私と西部氏はその夜パリの裏町で生牡蠣にワインを楽しみ、意気軒昂だった。舛添氏の世代論には西部氏も呆れ返っていた。二人は意気投合、パリ会議は激論を戦わせた二人の仲をかえって近づけた。
主催者の読売新聞社側は、二人にはパリで言い残したことが相当にあるに違いあるまいと踏んで、同社の月刊誌『THIS IS 読売』(一九八七年一月号)のほゞ一冊の半分近い大幅ページ数を提供し、論争のつづきを思いのたけ語らせてくれた。公平で面白い全記録が残り、「西尾幹二全集」第10巻に保存された。
興味深かったのは二人の結論が最終段階で接近したことである。それは理解とか寛容ということとは違う。西部氏は論争の最中も、終結後の資料の扱いにおいても、瑣末事に心乱されることなく、一貫してフェアーであった。
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