雑誌正論掲載論文
ホスピス落ちた 父が死んだ…
2017年12月25日 03:00
評論家 潮匡人 月刊正論1月号
「シャワー」――それが病床の父から聞いた最期の言葉になった。もう会話も難しい症状で、即席の「平がなボード」をつくり、意思疎通を試みたが、上手くいかなかった。そうしたなか、右の一言を発した。
おそらく「シャワーを浴びたい」と言ったのであろう。私にはそう聞こえた、実際その数日後、私の弟にも同じ言葉を発したらしい。そこで私から看護師に「父がシャワーを浴びたいと希望しているみたいです」と伝えたところ、「病院の規則でシャワーは週二回までと決まっている」という。
釈然としない気持ちを抑えられなかったが、病院で医療従事者と口論しても致し方ない。偶然、ちょうど頭部を洗うシャンプーの予定日だったので、シャンプーをお願いし、体をふいていただいた。それが父との最期となった。
死因は膵(臓)癌。昨年までは「ステージ3」の診断であり、手術しなければ余命二年との宣告ながらも、まだ手術による回復が見込める状態だった。だが、父は手術を拒んだ。医師も「助けられる命は救いたいが、高齢であり手術に伴うリスクも高い。手術するかしないかは患者と家族が決断すべき事柄であり、病院としてはどちらの選択もあり得るとしか申し上げられない」という。
長男として判断を迫られた私は、父の真意を確認すべく、両親が暮らすK市の実家を訪ねた。こうして、K市との往来が重なり、私や家族の仕事や家計に重くのしかかっていく。
K市までは新幹線で二時間以上の距離があり、往復の交通費も約3万円とかさむ。夫婦二人で往復して一泊すれば、いくら食費やホテルのグレードを抑えても10万円近くかかってしまう。加えて、紅葉の時期など観光シーズンはホテルから空室が消える。げんに本稿執筆中の十一月はすべての休前日が満室であり、そもそも宿泊予約できない。平日の火水木曜なら、僅かながら空室があるが、私と違い、家族はみな公務員や民間企業に勤める社会人であり、それぞれ休暇を取得せねばならず、簡単にはいかない。実際、弟は度重なる休暇取得が原因で、当時の勤務先をクビになってしまった。
K市で家族とランデブーし、どう父を説得するか、作戦を練った。それなりの準備と覚悟を整え、家族で実家を訪れた。頑なに手術を拒む父に、その理由を聞くと、「手術の間、お母さん(父の妻)を一人にできない」という。母は最重度の特別障害者(1級)に認定されており、当然ながら要介護認定も受けている。加えてアルツハイマー型認知症を患って久しい。私を含め家族はみな首都圏に住んでおり、K市の実家で母を一人にするわけにはいかない。
自分が入院する間、誰が母の面倒を見るのか。父はそう問うたわけである。いっけん理智的な発言だが、実は違う。というのも、その時点ですでに父もアルツハイマー型認知症に冒されていた。だからこそ、手術を受けないという(われわれ家族にとっても)重大な決断を下した真意を直接、確認しに行ったわけである。
父は昨年来、入退院を重ねており、そのたびごと、母は一時的な介護サービス(ショートステイ)を受けられる施設のお世話になってきた。膵癌の手術に伴う入院中も、同様のサービスをお願いすれば済む。言わば、それだけの話でではないのか。そう家族総がかりで父を説得した。ここは長男である私が言うしかない、「手術を受けないと死ぬぞ。本当にそれでいいのか」と強く迫った。かくしてようやく手術を受けることを承諾させた。
ところが、一安心したのも、つかの間。いざ手術をすべく、精密検査してみると、「ステージ4」だという。時すでに遅し。他の臓器に転移しており、もはや手術をしても助からない。ならば「ステージ3」のガン宣告は誤診ではないのかとも思ったが、おそらく以上の経緯と並行して病状が悪化し進行したのであろう。
いずれにせよ、残された選択肢は抗がん剤治療しかない。だが、父は抗がん剤治療も拒否した。直接その真意を問うと、「延命治療は受けたくない」という。こうして再び、長男である私は重大な判断を迫られた。不明を恥じるが、私は「抗がん剤には強い副作用があり、かえって患者を苦しめる」と誤解していた。本人が拒否する治療を無理強いするのもどうか、当初はそう考えていた。
とはいえ「治療をしなければ、余命は半年から一年程度かもしれない」という。どうしたものか、悩んでいたとき、尊敬する先輩から「たしかに一昔前の抗がん剤には強い副作用もあったが、最近の抗がん剤は昔と違い、安心できる」と、ご自身の実体験を含め、ご教示をいただいた。
こうして再び、父を説得することに相成った。前記と同様のやりとりが再現され、ようやく抗がん剤の治療が始まった。そこまではよかったのだが、残念ながら事実上、手遅れとなった。
当初は二年だった父の余命が一年となり、半年となり、数カ月に縮まった。さらに一か月となり、二週間、一週間と診断のたびに余命が短縮していく。もはや四の五の言ってはいられない。この秋は毎週のようにK市と新幹線で往復する日々が続いた。家族そろって行くのは難しく、それぞれ休暇を申請し、できるだけ多く、顔を見せるようにした。
そして「明日にでも」となり、K市に向かう新幹線に乗る予定だった日の早朝、病院から「今日かもしれません」との連絡が来た。
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■ 潮匡人氏 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。長官官房などを経て、3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。現在、評論家として活躍する。近著に『誰も知らない憲法9条』(新潮新書)。