雑誌正論掲載論文
誰がインド太平洋の覇者となるのか
2017年12月05日 03:00
産経新聞特別記者 湯浅博 月刊正論1月号
米国のヘンリー・キッシンジャー元国務長官が中国との国交樹立に動き始めたとき、自分の生きているうちに中国が米国を凌ぐほど強大になるとは考えていなかった。当時、米国最大の敵は、ソ連の共産主義であり、中国はそのソ連を封じ込めるための戦略カードに過ぎなかった。いまや、世界第2位の中国経済は、なお年7%近い成長を続けており、2030年代には米国を抜いて世界一の超大国になるとの予測さえある。
いまだ体制が整わないトランプ政権は、アジアの地域覇権を狙う中国の外交攻勢で攻め込まれる一方だ。彼の政権が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)など多国間協議から撤退するタイミングで、中国は現代版シルクロードの「一帯一路」構想を掲げて、勢力圏の拡大を目指す。まるで、隆盛を誇った古代中国の華夷秩序への誘いのように、陸と海のシルクロードをアジアから欧州に延ばしている。
アジア歴訪に先立つ10月、ワシントンは北京を熟知する現実主義外交の老泰斗、キッシンジャー氏をホワイトハウスに招き、秘密裏に対抗策を練った。彼が仕えた当時のニクソン大統領が、スピーチライターのウィリアム・サファイア氏に「私たちはフランケンシュタインをつくってしまったのかもしれない」と述懐したように、全体主義の中国がとんでもない怪物に成長してしまったからである。その中国は、核保有を目指す北朝鮮に対して、生命線となる経済を握っている。
米誌ニューズウィーク(2017/10/16)はこの秘密会議で、米中国交樹立交渉に匹敵する大胆な交渉術を練り上げた可能性を伝えていた。北朝鮮が核プログラムを放棄する代わりに、経済支援、外交的な承認、在韓米軍の2万9000人の削減に同意する破格の譲歩だという。
米中首脳がそんな密約でもすれば、核開発の棚上げという北の偽証によって、経済援助だけをむしり取られる過去の過ちと同じ道をたどりかねない。果たして、トランプ大統領のアジア歴訪が終わった直後の11月15日、中国要人の平壌入りが伝えられた。
これより前、トランプ大統領が訪中した北京は、まるで戴冠式を終えたばかりの中国皇帝が、はるばるやってきた賓客から祝賀を受ける儀式が行われていたかのようだった。習近平国家主席はつい10月の共産党大会で、共産主義国家樹立から100年目の2049年までに「中華民族は世界の諸民族の中に聳え立つ」と宣言したばかりだ。トランプ大統領がその習主席の全能ぶりを褒めちぎる姿は異様であった。トランプ氏は思い切り称賛したうえで、強大な権限を集中した習主席なら、朝鮮半島の危機を「容易に解決できる」とクギも刺していた。
中国要人の平壌入りが可能になっている以上、そうしたレトリックの背後で米中の「取引外交」が進んでいた可能性は否定できない。中国の大物特使、宋濤中央対外連絡部長の北朝鮮訪問が、共産党大会後の儀礼的な訪問だとしても、北が受け入れた以上、人質状態の米国人3人の解放交渉や核・ミサイル問題を協議する。キッシンジャー氏が米紙に書いた論考でも、米中が半島の非核化に合意した上で、北の体制をどうすべきかを了解する必要があると述べていた(WSJ 2017/8/11)。ニューズウィークが示唆した、北朝鮮をめぐる米中取引が現実になれば、朝鮮半島の平和それ自体は日本にとっても歓迎すべきものだ。しかし、そこに危険なワナが仕掛けられているというべきか。中長期でみると、米国が習政権のいう「新しい大国関係」に乗ることになり、中国が優位に立つことになるのは明らかだ。
どうみても不自然な大統領による賛辞のウラで、トランプ政権は冷静に督促の布石を打ってはいた。米国はこの間に、3つの空母打撃群を西太平洋に展開させて、北朝鮮とその背後にいる中国にニラミを利かせていたのは周知の通りだ。ワシントンではさらに、冷戦終結してからは使われなくなった貿易上の対抗措置を着々と準備していた。
米コラムニストのアンドリュー・ブラウン氏によれば、中国の鉄鋼、アルミの不当廉売(ダンピング)への対抗策として、国家安全保障上の懸念を持ち出す手を打っていた。中国は略奪的な産業政策をやめる気配はなく、貿易の違反行為に対する世界貿易機関(WTO)の勧告を無視して恥じるところがない。ブラウン氏はこれらの事実から、北京での友好的な米中首脳会談が、実は「対立の序章として扱われる」とみている(WSJ 2017/11/14)。
米中相互牽制の場は、ベトナム中部ダナンで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の関連会合で、中国の習近平主席が「一帯一路」構想の実利で磁場を広げるのに対し、巻き返しを狙うトランプ大統領が、「インド太平洋」戦略を掲げて火花を散らした。それはまさしく、誰がインド太平洋の覇者になるかの争奪であった。
特に、TPP離脱でアジアへの関与が疑われたトランプ大統領は、初めてこの「インド太平洋」という地政学的概念を多用し、経済を語りながら安全保障への関与を強く参加国に意識させたのだ。トランプ氏は「自由で開かれたインド太平洋というビジョンを共有できるのは誇りである」と、アジアに関与し続ける姿勢を明らかにした。この枠組みの中で、法の支配、個人の権利、航行の自由という三原則を示し、中国による地域覇権の野望を打ち砕く意思にみえた。
「インド太平洋」と表現されたこの概念は、もともと安倍首相が2007年にインド議会で、インド洋と西太平洋を指して「二つの海の交わり」と演説し、〝軍拡病〟が治らない中国を牽制するものであった。実は、この概念が論じられたのは、ずっと古く17世紀ムガール帝国の王子、ダラ・シーコからである。インド洋と西太平洋は、インド、マレー、中国、日本の商人たちによって、インドと中国を交易で結びつける一つの海であった。
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■ 湯浅博氏 昭和23(1948)年生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-career program修了。産経新聞ワシントン支局長などを歴任。近著に『全体主義と闘った男 河合栄治郎』。