雑誌正論掲載論文
三笠宮殿下は男系を守ろうとされた
2016年12月15日 03:00
作家 竹田恒泰 月刊正論1月号
平成二十八年十月二十七日午前八時三十四分、三笠宮崇仁親王殿下が薨去あそばされた。御年百歳であられた。臣民の一人として心から哀悼の意を表したい。
殿下は、戦時中は皇族軍人そして弟宮として昭和天皇をお支えになり、戦後は国民から親しまれる皇室を築く上で絶大なお力を発揮なさった。現在の皇族方が、様々なご活動をなさり、国民との間に多種多様な接点をお持ちになっておいでなのも、宮様がその基礎をお作りになったからではないかと思う。皇族最長老であられ「大殿下」として親しまれた宮様だった。
殿下と妃殿下との間には男のお子様三方、女のお子様二方がおいでで、子だくさんの宮様として知られていた。ところが、三笠宮家は、あれだけ栄えたにもかかわらず、男のお子様は長男の寬仁親王殿下、次男の桂宮殿下、三男の高円宮殿下ともすでに薨去あそばされ、今般崇仁親王殿下がお隠れになったことで、三笠宮家には男性皇族がお一方もいらっしゃらなくなった。これにより、三笠宮家が断絶することが確定してしまったことは実に残念である。
父親としてご子息三方を看取ることのお苦しみはいかばかりであったろうか、想像するに余りある。平成二十四年に寬仁親王殿下の斂葬の儀(葬儀)にご出席になった翌日の六月十五日、大殿下はご体調不良でご入院あそばし、心臓の手術をお受けになったことからもそのお苦しみが拝察される。
三笠宮は、秩父宮、高松宮に次ぐ昭和天皇の弟宮ご一家で、大正・昭和生まれの人にとっては馴染みが深い。また、お子様の寬仁親王殿下、桂宮殿下、高円宮殿下はいずれも各方面で活躍なさり多くの国民に親しまれたため知る人も多い。桂宮殿下は生涯独身でいらっしゃったが、寬仁親王殿下のお嬢様お二方、高円宮殿下のお嬢様お三方ともすでに成人あそばし、近年は精力的に御公務をなさっていらっしゃる。特に高円宮殿下の次女であられる典子女王殿下が出雲国造家の千家家にお嫁ぎになったことは、国民的な慶事として多くの国民が祝福した。平成生まれの人も、たとえ三笠宮殿下を知らずとも、お子様方やお孫様方を知っている人は多いであろう。
このように、たくさんのお子様方やお孫様方が、自らの個性を活かして伸び伸びとご活躍になるのも、大殿下の皇族としての型にはまらない自由な発想とご性格の影響によるものが大きかったのではないかと思う。
大正四年(一九一五)十二月二日に大正天皇の第四皇子としてご誕生になった崇仁親王殿下は、四人兄弟の末っ子であられた。同じ大正天皇の皇子でも、長男と四男では全く別の人生を歩むことになる。大正十五年(一九二六)に大正天皇が崩御となると、長男の裕仁親王殿下は天皇にご即位になり、崇仁親王殿下は十一歳にして「天皇の弟宮」となった。
その後、殿下は明治以来の慣習に従い、軍人としての道を歩むことになる。昭和七年(一九三二)に陸軍士官学校にご入学になり、陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校をご卒業になる昭和十六年(一九四一)十二月、日本は米国との戦争に突入。殿下は戦争中の昭和十八年(一九四三)に、お印の「若杉」にちなんで「若杉参謀」を名乗って皇族の身分を隠し、支那派遣軍参謀として南京に赴任した。中国では総司令部の通訳官をしていた木村辰男が、三笠宮殿下の中国語教師に任命された。既に殿下は中国語を勉強していらっしゃったようで、木村が初めて殿下に拝謁した時、殿下は中国語を研究する抱負を次の様に話していらっしゃったという。
「自分は過去において英語を学んだ。〔中略〕英語を勉強していると、自然と英語を使用している民族に対する理解が出来てくる。一切の言動に好感がもて、かつ親愛の情がわいてくるものである。〔中略〕自分が今日、中国語を研究せんとするのはそのためであって、必ずしも中国語を学んで、中国人との直接意思疎通を図り、また外交的な道具に供することを主眼とするものではない。中国および中国人を深く理解したいという念願からである。異民族を理解するための最短距離は、まずその民族が平素用いている言葉を学ぶことだ。況んや中日の関係が今日の如く、戦争状態にある秋にこそ、その必要を殊更、痛感する」(木村辰男「南京の若杉参謀」『週刊朝日(臨時増刊)』昭和二十七年三月二十五日号)
将来学者となられる殿下らしい論理的思考もさることながら、異民族を理解しようとする深い人間愛を感じるのは筆者だけではないであろう。
昭和十九年一月五日に南京で行なわれた尉官に対する教育で、殿下が二時間に亘って日本軍の反省について語ったその内容は、実に衝撃的なものであった。この講和の記録によると、冒頭で殿下は次の様に仰せになったという。
「戦争指導の要請上、言論は極度に弾圧せられあり。若干にても日本に不利なる発言をなし或は日本を批判する者は、たとえ真に日本を思ひ中国を愛し東亜を患ふる情熱より発するものといえども、之を遇するに日本人に在りては『売国』を以てし、中国人に在りては『抗日』『通的』あるいは『重慶分子』を以てせらるる。今日一般幕僚に於ては大胆なる発言は困難なり」(若杉参謀「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。一部の漢字表記とカタカナ表記をひらかなにし、句読点を補った)
当時は言論が厳しく制限され、軍の参謀が自由に「日本に不利なる発言」をすることができないなか、皇族であるが故に言わねばならないとの強いご信念から御発言になったことと拝察される。
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■ 竹田恒泰氏 昭和50(1975)年、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫。慶應義塾大学法学部卒業。『語られなかった皇族たちの真実』で第15回山本七平賞受賞。同大法学研究科講師など歴任。