雑誌正論掲載論文
日本虚人列伝 大江健三郎
2016年10月15日 03:00
文藝評論家 小川榮太郞 月刊正論11月号
あなたはどこにおいでなのでせうか。――
あなたの小説を読んでゐて、いつも気になるのはその事です。作品の中にゐないといふ意味では無論ありません。あなたの作品は、極めて色濃くいつでもあなたの自我、いや体臭に染め上げられてゐる。しかし、あなたはいつからか、文学作品をあなたが本当にこだはらなければならないものから逃げる手段に使ひ始めてしまつたのではないでせうか。
この小文は、手紙形式で大江さんに語り掛けるやうに書かうと思つてゐます。形式的な気取りとしてでなく、本当に大江さんとの対話の足がかりにしたいと考へての事です。あなたの子供の世代に属する一人の文学者の言葉としてこれを読んで頂きたい、さういふはつきりとした対話への希求を持つてこの一文を認めてゐる事をまづ申し上げたいと思ひます。
あなたは、何度目かの最後の小説『晩年様式集』を、友人のエドワード・サイード『OnLateStile』への相聞として書いてゐます。これはあなた御自身の過去の作品の落穂拾ひをして生涯の決算にしようといふ創作楽屋話的な私小説ですが、サイードは対話を大事にした人でしたから、この着想は充分意味があるでせう。あなたの本でも言及されている、音楽家ダニエル・バレンボイムとの優れた対談集で、二人は、ベートーヴェンの交響曲が、和声進行によつて異質な世界に聴き手を迷はせ、それが主調に戻る事で、本拠といふ感覚をかへつて深める様を論じてゐる。現実にもサイードやバレンボイムは、異質な人間による厳しい批判、そして彼らとの対話を恐れなかつた、自分を新しくしつつ、確かめる為に。そして、あなたもサイードについてかう書いてゐます。
「終生のパレスチナ問題への参加にしても、白血病と闘い続けての死にしても。かれは端的にカタストロフィーを避けなかった。カタストロフィーのただなかへ自爆して行くようにして(略)人間らしさと威厳を持って斃れた。」(『晩年様式集』一三〇頁)
これは、小説の登場人物、ギー・ジュニアの言葉ですが、大江さん自身もさうあらうとしてきたと受け取つていいでせう。
実際、あなたは、この本の最後に次の一節を含む自作の詩を引用して、結論としてゐます。
否定性の確立とは、
なまなかの希望に対してはもとより、
いかなる絶望にも
同調せぬことだ……
(前掲書三三一頁)
これはカタストロフィーを辞さぬ覚悟と深い所で共振する言葉であり、また、絶望にも希望にも同調せぬといふ事は、別の言ひ方をすれば自分の同調者に対しても安易に同調せず、異論の持主に対しても、対話を拒まずに緊張ある対峙を続けるといふ態度にも通じます。
もしさうであるならば、私のこの手紙は必ずあなたに届くはずだ。
ところが、この『晩年様式集』には、次のやうな一節もあつて私を不安にするのです。
《五月三十日の新聞に、電力四社が、原発八基の再稼働を申請する、と報道されていました。さらにその隣りの記事には、原発輸出を急ぐ安倍首相の、「日印原子力協定」へまさに乗り出して行く写真がありました。「核不拡散条約」に加盟していない、核保有国インドに対してであります。
これは広島・長崎への裏切りです。原発再稼働の申請が、福島の原発事故で苦しむ人々への裏切りであるように。さらに、「原発ゼロ」を実現するほかないと、日本各地で集まり、声をあげ、デモ行進する者らへの裏切りであるように。そしてそれはまた「原発ゼロ」への意志を圧倒的に現わし続けている、各種の世論調査への侮辱であります。》(三一一頁)
偶々、この原稿を書いてゐる今朝の朝刊によると、安倍政権の支持率は六十二%との事でした。政権発足から三年九ヶ月としては、「圧倒的な」数値でせう。では、私が、この数字を楯に、安倍批判をするあなたに向かつて「安倍支持の意志を圧倒的に現わし続けている、各種の世論調査への侮辱」だと書けばあなたや取り巻きの皆さんはどういふか。失笑して相手にしないのではありませんか。
あなたとしては聞き飽きた批判でせうが、ここはやはり目を背けないで頂きたい。
問題は、この野党政治家の演説のやうな一節が、共産党のビラではなく、文学者・大江健三郎の『晩年様式集』の一節だといふ事にあるからです。
例へば大岡昇平のやうな周到な調査と考察を元に、このパンドラの函をどうするかといふ人類的な検討に繰り出すといふなら、結論如何を問はず、私には理解できます。さうした静かで精緻で確かな問題の追求こそが真の文学者の「晩年様式」――この言葉から私なら、『フーガの技法』、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏、『ファウスト第二部』などを想起します――にふさはしかつたでせう。
ところがあなたは、実証性、科学性ゼロ、世界といふ文脈抜きの日本政府批判、そして何より文学者としての執拗な自問自答もないまま、ステレオタイプな原発反対の政治演説を書き入れて、それに『晩年様式集』と名づけてゐる。
あなたは、日印原子力協定を、広島・長崎への裏切りだと言ふ。が、この日印協定は、単なる原子力エネルギー対策ではなく、中国の脅威への対処でもある。中国の核の脅威は現実に存在します。原発の恐怖がそんなに大きいといふならば、日本の近隣で現実に戦意を持つ国々に核兵器が拡散してゐる今、「人類といふ同胞として」の日本人はそれにどう対峙するのかを抜きに、広島・長崎を持ち出すのは、良心に欠け過ぎるのではありませんか。
大江文学は素晴らしいが政治的発言はナンセンスだといふ評価があります。小谷野敦氏が『江藤淳と大江健三郎』で、大江さんを「近代日本最大の作家である可能性」さへあるとする一方で、「大江は、反核平和主義という『会社』に就職した」と見てゐるのは、その代表例でせう。大江さんの政治的発言は朝日─岩波の読者層への営業だから、「大江の政治的発言は硬直して非文学的なのだ」(小谷野氏)といふわけです。
それを完全に否定する事は出来ないでせう。
が、私は、あへてこの見方に異を唱へたいと思ひます。といふのは、あなたの文学の内側に、いや、核にこそあなたの「政治的な硬直」があると私には感じられるからです。
文学的な冒険、実験をしてゐるやうで、あなたは多年、政治的な安全地帯を設けて自分の物の見方、価値判断の軸自体を揺るがすやうな自問自答は全て避けてきたのではないか。あなたの冒険はあなた自身への冒険ではなく、文学的意匠の過激さへの冒険に過ぎなかつたのではないか。前期作品のあなたの主題は性であり、後期では光さんや谷間の村(の神話)となりますが、現実のあなたが直截で感情的な反応をするのは、いつでも「日本国家」であり「天皇」であり「戦後民主主義」「ヒロシマ」「沖縄」です。それらへの反応が「政治的な硬直」になるのは、それがビジネスだからではなく、それこそがあなたの真の主題だからでせう。セクスも光氏も谷間の村も、文学者としてのあなたの真の主題ではなく、主題を回避する為の韜晦の装置だつたのではないか。真正面から素朴に語られる「天皇」や「戦後民主主義」こそは、あなたにとつて深刻な傷、生存理由であり、否定や擁護が絶対に必要な何者かなのではないか。ところが、あなたはその一番の「傷」を、正面から吟味せずに、意匠の難解さを仮構しながら、政治的価値判断を、自我の揺るぎない避難場所に設定した結局の所、徐々に確実になつた戦後社会の安定に寄り掛かりながら。「天皇」が否定すべきものだと決まつて揺るがなければ、複雑な意匠でそれを飾る事は、あなたには容易なことでせう。が、それは本当に文学なのか。
今回はその事を、連続短編である『セブンティーン』と『政治少年死す』で考へてみたい。これらは正面から政治を主題にしてゐます。したがつて「政治的な硬直」があつては、文学にならない筈ですが、実際にはさうなつてしまつてゐるからです。
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■ 小川榮太郎氏 昭和42(1967)年生まれ。大阪大学文学部卒業。埼玉大学大学院修士課程修了。創誠天志塾塾長。