雑誌正論掲載論文

民族の受難 通州事件の研究

2016年07月25日 03:00

拓殖大学客員教授 藤岡信勝 月刊正論8月号

 五月三十一日、「通州事件」をユネスコの世界記憶遺産(「世界の記憶」)に登録申請した。この方針を決めてから七カ月目に、念願が実現した。尽力いただいた関係者の皆様に感謝したい。以下、簡単に申請に至るまでの経過を記す。

 ことの起こりは教科書問題だった。昨年四月、文科省の検定に合格した「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書(自由社刊『中学社会 新しい歴史教科書』)には、「日中戦争」の単元の記述において、小・中・高校用を含む他社のすべての歴史教科書にはない二つの特徴があった。

 その一つは、虚構の「南京事件」を一切書かなかったことである。もう一つは、日中間で実在した重大事件である「通州事件」を書いたことである。こちらのほうは、現在の歴史教科書のみならず、戦後の歴史教科書のどれにも書かれたことのない記述である(ただし、自由社の教科書が「通州事件」を初めて書いたのは、さらに四年前の二○一一年の検定合格時である)。

 教科書に書いた以上、通州事件について、教科書をもとに教える立場の方々に、適切な情報を提供する義務があると、私はかねてから執筆者側の一人として考えていた。

 昨年十月、虚構の「南京事件」が中国の申請で、ユネスコの記憶遺産に登録されてしまった。日本の外務省は、登録阻止を目指してかなりの努力をしたが、中国のロビー活動に敗れてしまった。しかし、その資料はずさん極まりないシロモノで、しかも未だに内容が公開されていないといういい加減さである。私はその批判を本誌にも幾度か書いた。

 その後、「通州事件」をユネスコに登録しようと思いついた決定的なキッカケがあった。それは、中国内モンゴル自治区出身の研究者・楊海英氏(静岡大学教授)が、十月二十七日付の週刊誌『ニューズウィーク』に書いた「中国の虐殺も記憶遺産に登録すべきだ」というコラムを読んだことである。

 世界大戦を経験した人類は、一九四八年十二月九日、「ジェノサイド条約(集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)」を採択した。これには当時の中国の合法的な政府である中華民国も署名した。

 ところが、翌年成立した中華人民共和国は、数々のジェノサイドを国内外ではたらいてきた。文革だけでも一千万の犠牲者を出したことを中国政府自身が認めている。チベットに対しては、建国直後に多数のチベット人の殺戮を開始した。ジェノサイド条約を採択した以上、国連は中国が犯した犯罪も裁くべきではないか、という論旨である。

 私はこの指摘に大きな刺激を受けた。こうした発想をもっていなかったからである。

 申請は通州事件とチベットにおける大量殺人をセットにして、「20世紀中国大陸における政治暴力の記録」という統一テーマを立て、共同申請案件として提出した。日本側の主体は、「通州事件アーカイブズ設立基金」がなり、チベット側は、チベット出身の研究者・ペマ・ギャルポ氏(桐蔭横浜大学教授)の紹介で、チベット亡命政府の前国会議員の方に提出主体になっていただいた。記憶遺産は、個人でも申請する資格がある。

 日本の基金側は、十五人からなる資料発掘・評価チームをつくり、一月以来、七回の研究会を開催した。これとは別に、翻訳チームを十名で組織し、提出する全資料の英訳にあたった。メンバーの中には、三人の海外在住者が含まれている。

 五月三十一日、メールで十五ページの英文の申請書をユネスコに送信し、同時に紙媒体とCD媒体の資料を、段ボールでパリに送った(31日消印有効)。提出した資料は、次の十八アイテム(項目)である。

・外務省声明

・帝国議会陸軍大臣報告資料

・天津警察署通州分署作成殉難者氏名

・殉難者発見現場地図

・萱島高証言

・桂鎮雄証言

・桜井文雄証言

・佐々木テン証言

・安藤利男証言

・橘善守証言

・浜口茂子証言

・張慶余「翼東保安隊通県決起始末記」

・武月星他「盧溝橋事変風雲編」

・通州事件新聞記事集成

・作家・吉屋信子の報道記事

・ウイリアムズ著書における事件の観察

・通州事件を悼む歌謡曲コレクション

・通州事件の関連写真

 なお、同じく五月三十一日の締め切り日に、山本優美子氏の「なでしこアクション」と「慰安婦の真実国民運動」、及びアメリカの「日本再生研究会」が共同で、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」というタイトルで記憶遺産に登録申請したことを付け加えておく。

 この連載は、ユネスコへの申請資料を使って書いている。申請資料を読むとどういう世界が見えてくるかという解説にもなっている。今回は、事件現場からの脱出に成功した日本人のうち、三人の方々のケースを取り上げ、資料の文脈をたどる形で書くこととする。

 一人目は、村尾大尉夫人である。(資料・)(以下、敬称は省略する)

 村尾昌彦大尉は日支の緩衝的役割を任っていた冀東防共自治政府保安隊の顧問だった。保安隊の裏切りによって卑劣な手段で殺害された犠牲者の一人である。村尾大尉の夫人は、眼前で夫が殺されたが、虎口を脱して生き延びた。

 通州事件の生き残りの人々のうち、その証言が日本のメディアに最も早く報道されたのは、この村尾大尉夫人であった。最初の報道は、東京日日新聞の一九三七年七月三十一日付号外である。【北平本社特電】(三十一日発)となっている。見出しは次の通り。

 ▽惨たる通州叛乱の真相/鬼畜も及ばぬ残虐/眼前で村尾大尉殺害/虎口を脱した夫人語る

 以下、記事の内容の概略を紹介しよう。

 七月二十九日、保安隊が反乱を起こした。午前二時頃、反乱軍は日本軍守備隊と交戦していたが、そのうち大部隊が分かれて、日本軍の特務機関や旅館・近水楼の前に殺到し、十分おきに機関銃と小銃を撃ち込んだ。近水楼の前には、日本人の死体が山のように転がっている。子供を抱えた母が二人とも死んでいるなど、二度と見られない惨状だった。

 この時、村尾大尉夫妻は自宅にいた。二十九日午前二時頃、保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着替えようとしていたところ、その従卒がいきなり村尾に向かってピストルを一発撃った。村尾は「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れた。従卒はそこらにあるものを片っ端から奪って出て行った。

 夫人は台所のほうに隠れていたが、帰ってきた支那人のボーイに外は危ないと言われ、押し入れの上段の布団の中にもぐっていた。そこへ先の従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて来て家捜しをし、押し入れの中も探したが、上段にいた夫人に気付かず、九死に一生を得た。

 家の中には、大尉の軍隊時代および冀東政府の勲章が四つ残っていた。それを思い出の品として支那鞄の底に入れ、大尉の死体には新聞紙をかけて心からの冥福を祈った。そして、ボーイに連れられて冀東防共自治政府の殷汝耕長官の秘書・孫氏の夫人・一珊のところに飛び込み、三十日の朝まで隠れていた(なお、八月一日付の読売新聞では、この夫人は日本人である)。

 しかし、日本人は皆殺しにするとの声が聞こえ、危険が迫ったので、二人は支那人になりすまして徒歩で出かけた。途中、疑われたりもしたが、支那人であると言い張り、三十日の午後十一時、(北京の)日本警察署に入ることが出来た。

 反乱部隊の張慶余隊長は毎日、大尉の家に遊びに来て「好朋友、好朋友」などと言って村尾大尉とは非常に仲良しだった。「こんなことになるとは、支那人ほど信じがたい恐ろしい人間はないでしょう」と夫人は語った。

 八月一日付の読売新聞はさらに詳しい脱出記を掲載した。先の東京日日新聞号外では、村尾大尉夫人のファーストネームと年齢が書かれていなかったが、この記事は、夫人のフルネームは「村尾こしの」、年齢は三十八歳だと明らかにしている。夫の勲章をつま先の細い支那靴の下に入れて脱走したという印象的なエピソードも書かれている。

続きは正論8月号でお読みください

■ 藤岡信勝氏 昭和18(1943)年、北海道生まれ。北海道大学教育学部卒。東京大学教授などを経て現職。平成7年、自由主義史観研究会を組織、「新しい歴史教科書をつくる会」元会長。著書・共著に『教科書が教えない歴史』(扶桑社)、『汚辱の近現代史』(徳間書店)、『国難の日本史』(ビジネス社)など多数。