雑誌正論掲載論文

根源へ 草舟立言 第1回 死生観について

2011年09月11日 03:20

「何が私であるのか」と考えよ

 「根源へ 草舟立言」の第1回となります。毎回テーマを立てて、執行草舟氏のお話をうかがってまいります。今回のテーマは「死生観」です。(月刊正論10月号

 戦後の日本から失われたものはあげればきりがありません。戦後は「死」を汚らわしいもの、忌むべきものとして徹底的に忌避するようになりました。それにともなって日本人は「死生観」を失っていった。それゆえ何のために生き、何のために死ぬのかを考えられなくなってしまった。戦後日本の混迷の原因はここにあるように思います。

 執行 そうですね。ただ、もっと大きなスパンで見ると、デカルト(1596-1650)以降、つまり近代に入ってから洋の東西を問わず、「死生観」は徐々に失われていったんです。「自分とは何であるのか」と考えるようになったのが近代なんです。しかし、この問いを突き詰めていくとエゴイズムとその結果である虚無に入っていかざるを得ません。デカルトの時代から400年をかけて、我々はいまエゴイズムの頂点にいます。そして虚無が目前に迫っている。

 --デカルト以前は違っていた。

 執行 そうです。中世の人々にとって問題だったのは「何が私であるのか」ということでした。これは日本でも同じです。この問いによって人々は宗教、主君、国家の意味について考えをめぐらし、自分が何のために生き、何のために死ななければならないかを考えるようになった。何かの価値のために生きている自分の命を感じていた。つまり誰もが「死生観」を持つことが出来たのです。

 デカルト以来の「物心二元論」と呼ばれる近代思想を全面的に受け入れてしまうと、自己が生きることにばかり関心が向いてしまいます。これは昼の思想であり、酸化の思想です。酸化の思想とは錆びていく思想です。一方、死は夜の思想であり、還元の思想です。言い換えればふるさとへ還る思想です。中世を覆っていたのは夜の思想です。中世思想を樹立した代表的人物のひとり、クレルヴォーの聖ベルナールは自分たちが生きている時代の精神を「夜の精神」と言いました。それを象徴する言葉が「メメント・モリ」というラテン語の言葉です。

 --「死を思え」

 執行 そう。「死を思え」が中世の合言葉です。この言葉の真意は「生ききれ」ということです。死を思わなければ生はない。今の人は生に執着し過ぎているから、「死を思え」というと暗い印象で捉えてしまう。

 --一般的には、ルネサンス以前は暗い時代という印象が流布しています。

 執行 それは以前の話ですね。意欲的な歴史家の研究、たとえば中世史の泰斗C・ドーソンやF・ブローデルを中心とするアナール派の歴史家たちによって中世の印象は一新されています。中世というのはすごく明るい時代だった。西洋においてはキリスト教を中心に死を考えていますから、その日その日の生が輝いてくるわけです。死について絶えず考えなければ本当の生はない。それが死生観の根本です。

 戦後の日本は死を教えなくなりました。それゆえ戦後の日本人は本当の生を知らないまま生きるようになった。生だけをどんなに考えてもダメなんです。考えれば考えるほどエゴイズムに陥り、生きがいのない燃焼できない生に入っていってしまう。何でもそうですが、陰と陽が組み合わさって初めてものごとは回転していく。

 近代思想というのは、陽の部分しか考えようとしない。その先に何が待っているか。野垂れ死にですよ。物質としての終わりがあるだけです。

 --そうですね。知覧で特攻に散った青年たちの残したものを見ると、まさに彼らは「メメント・モリ」で生き、その中で自分の生を最大限に燃焼させて死んでいったと感じます。

 執行 特攻に出る前の日の写真は、誰もがものすごくいい顔をしています。

 --同感です。

 執行 あんないい顔、いまの日本人にはいませんよ。死を控えてどうしてあんなに素晴らしい顔をしているのか、いまの人は理解できないかもしれません。あれは死に方が決まり、自分の死に価値ができたからなんです。人間というのは死に方が決まれば、生き方が決まります。そして生き方が決まれば、その人が持っている一番いいものが出てくる。一方でいまの日本人が死ぬ時は、もう惨めというか、かわいそうとしか言いようがありません。

 --哀れとしか言いようがない感じがします。

 執行 それは死生観を持たないからです。生命というのはどちらにしても消滅するものです。ですから、違いは生に価値があったか、なかったか、それだけのことです。価値があったら幸福になるし、価値がなかったら不幸になる。死生観、つまりどういう人間として、どのように、どこへ向かって死にたいのかということを決めることができれば、おのずと価値のある生を生きることができる。これさえ決めることができれば、地位や財産も関係なくなる。ほかの人たちが苦しんでいるものから自由になれます。

 --ちょっとわかりづらいところがあります。死に方を決めるというのは、具体的にはどういうことなんでしょう。

 執行 具体的に言うと、武士に生まれたのなら自分の意志で武士らしく死ぬということです。私も決めていますが、生命は固有であり個別のものですから人に言ってもわからないと思います。ただ、私は自分がすでに決めてある価値観のためだけに死ぬ。

 --病院のベッドに縛り付けられるような状態になるのであれば、さっさと自分でケリをつけたいと私は考えていますが、その考えと死生観は別のものですよね。

 執行 別ではありません。ケリの付け方を自分で決意して生きていれば、それは死生観です。ただし、本当の決意は、自分以外の何ものかのために生きていなければ真には持てるものではありません。(続きは月刊正論10月号でお読みください

執行草舟氏

 昭和25(1950)年、東京生まれ。立教大学法学部卒。消費社会の人間の生き方に疑問を呈し、生命の燃焼を軸とする新しい生き方を提唱する。著書に人生論『生くる』、詩歌随想集『友よ』(ともに講談社)。