雑誌正論掲載論文

語り継ぐ自衛隊と国民の絆

2014年03月07日 03:00

ジャーナリスト 井上和彦 月刊正論4月号

 ♪うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川

 夢は今もめぐりて 忘れがたき ふるさと♪

 防衛省(東京都・市谷本村町)の講堂に若い歌声が響いた。

 昨年5月8日、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市の蛇田中学3年生約200名が修学旅行で防衛省を訪問し、献身的な災害派遣活動を行なってくれた自衛隊員に「合唱」で感謝の意を表したのだった。

 震災時、蛇田中学校は避難所となったが、災害派遣された自衛隊員の献身的な支援活動が多くの人々の心に刻まれた。震災後に蛇田中学校に入学した生徒達は、入学時より「合唱」という形で自衛隊に感謝の気持ちを伝えたいと考えていたという。その思いが震災から2年が過ぎたこの日に適ったのである。

 生徒の歌声は、参集した自衛隊員の涙腺を緩め、その感動は頬を伝った。

「…私は小学校3年生まで大川小学校にいました。知っている友達がたくさん亡くなったことはとても悲しいことです。しかし亡くなった友達を泥だらけになっても探してくださった自衛隊の方々に心から感謝いたします」

 学級委員長代表の感謝の言葉に、自衛隊員の脳裏には3年前の被災地の記憶が鮮明に蘇ったのだった。

【うみちゃんからの手紙】

「すいません!」

 平成23年4月6日(以降、年の記述のない日付は平成23年)、宮城県の追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第一4戦車中隊(岡山)の石井宣広三曹は、突如、背後から声を掛けられた。

 その声の主は小さな少女だった。ワンピースを着た少女は、振り向いた石井三曹にこう言った。「これ、読んでください…」

 石井三曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。

 少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井三曹に手紙を渡したのである。

 本部勤務だった石井三曹は、連絡幹部にこの手紙を渡したが、手紙の中身がどうしても気になって、およそ10分後にこの連絡幹部を訪ね、かわいらしい封書を手にとったのだった。そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた=写真下。

「じえいたいさんへ。

 げん気ですか。

 つなみのせいで、大川小学校のわたしの、おともだちがみんな、しんでしまいました。でも、じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります。

 日本をたすけてください。

 いつもおうえんしています。

 じえいたいさんありがとう。

うみより」

 石井三曹は感無量となり、込み上げるものを必死で堪えた。

「感動で胸がいっぱいになりました…。あの頃は、発災から1カ月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で皆が勇気づけられ、『明日からも頑張るぞ!』と勇気が湧いてきました。そして自分達のやっていることが人々のためになっているんだ! とあらためて認識しました」

 その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わっていった。中には、うみちゃんからの手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。

 少女がおぼえたての文字で綴った『日本を助けてください』の切実な願い。まさしくそれは全国民の願いでもあった。

 このうみちゃんの手紙は、敢然と国難に立ち向かう自衛隊員の労をねぎらってくださった天皇陛下のお言葉とともに、自衛官にとって最高の勲章だったにちがいない。

【すべては被災者のために!】

 日本有数の漁港として知られた女川の街は、東日本大震災時の巨大津波によって、ありとあらゆる建造物が地表からはぎ取られ、あたり一面がまるで焼け野原のようであった。その惨たらしい光景は、筆紙に尽くしがたく、災前の街の風景を思い浮かべることすらできなかった。

 かつて密集していた民家は、コンクリートの基礎部分を残して跡形もなく消え失せ、鉄筋コンクリートのビルさえも、その分厚い壁が無残にうち砕かれていたのである。まるで爆撃か艦砲射撃を受けたかのような惨状だった。

 そしてあたりに散乱する自動車は、恐竜に踏みつぶされたかのようにめちゃくちゃに壊されており、あらためて津波の恐ろしさを思い知らされた。見るも無惨に破壊しつくされた女川の街にはもはや人々の息づかいはなく、春の訪れを喜ぶ鳥の鳴き声だけが・生・を感じさせる唯一のものだった。

 この女川町で災害派遣活動を行なったのは、陸上自衛隊第14旅団(香川県善通寺)であった。

 3月18日に女川に到着した第14旅団は、旅団隷下の第15普通科連隊(善通寺)、第50普通科連隊(高知)および第一4特科隊(松山)を主力とする人員約1500人の他、車両390両、第一4飛行隊(北徳島)所属のヘリコプター5機という大部隊を一挙に投入した。そして、女川総合運動公園に宿営地を設営し、女川地区をはじめ各地で大掛かりな救援活動、生活支援活動を実施したのである。

 しかも香川県善通寺に置かれた旅団司令部を、最前線の女川に移し、旅団長の井上武陸将補が現場で陣頭指揮を執ったのだ。第14旅団は、まさに・総力戦・で今次の災害派遣に臨んだのである。

 余談となるが、第14旅団が司令部を置く四国・善通寺駐屯地は、かつて陸軍第一1師団が置かれた伝統の地であり、その師団長は、後に日露戦争で常に前線に立ち、203高地を攻略した名将・乃木希典大将だった。乃木大将の″指揮官先頭・の精神を墨守するかのように、井上武陸将補もまた、最前線に立って部隊を指揮したのである。

 当然、旅団の士気は上がった。

 井上旅団長は全隊員に訓示した。

「被災者の気持ちに応えよ!『すべての活動は被災者のために!』」

 この「すべての活動は被災者のために!」が旅団の活動方針となったのである。

【第21連隊の災害派遣活動】

 岩手県釜石市は、人口約3万9千人の人口を抱えていたが、その3・3%にあたる約1300人が死亡または行方不明となり、そして5・8%にあたる約1250人が避難者(在宅避難者を含む)となった。

 その釜石市に展開した末吉洋明一佐率いる第21普通科連隊(秋田)の作戦地域は、典型的なリアス式海岸を中心に、南北19キロ、東西11キロという広範囲だった。部隊は、当初の人命救助をはじめ、給水・給食医療・入浴支援など、持てる力を総動員して救援救護活動を行ない、同時に、各員は、不明者捜索活動に全力を上げたのである。

 復旧支援活動として、約16キロの道路啓開を行ない、公共施設の瓦礫除去の総量は約3万1千立方メートル、これは10トンダンプ約1250台分に相当する。

 その他、第21普通科連隊は、救援物資輸送、釜石市から花巻市への患者輸送からミニガソリンスタンドの設営まで、ありとあらゆる支援活動を実施したのだった。

 筆者は、連隊本部管理中隊広報室の折野明陸曹長の案内で釜石の被災地を見て回ったが、それは筆紙に尽くせぬ惨状であった。震災前は、活況を呈していたであろう地元商店街は、津波でめちゃくちゃに破壊され、あちこちに瓦礫の山が築かれたままなのだ。

 発災直後から釜石中心部で災害派遣活動にあたった第21普通科連隊重迫中隊の中隊長・堀野四男一等陸尉はその現場で語ってくれた。

「当時はひどい状況でした。町は津波で破壊され、瓦礫の山で足の踏み場もない状況でした。いま我々が立っている場所が仮の遺体安置場所です」

 そう聞いて、驚いた筆者は目をむき出して思わず足下を見た。

続きは正論4月号でお読みください

■ 井上和彦氏 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。軍事漫談家。著書に『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)など多数。