雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第100回 大往生たち

2013年09月25日 03:00

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論10月号

 長野県の諏訪中央病院長・鎌田實さんから聞いた話だ。いや、酒の席で聞いたか、それとも鎌田さんのエッセーで読んだか。それは忘れたが、面白くて忘れられない話がある。

 老人ホームで認知症の老人たちが「あの世はどんなところだろうね」と話し合っていた。すると一人のおばあさんが「どうも、いいところらしいよ。誰も帰って来ないから」。

 認知症どころか、人生の無明(むみょう)を見通している。そんな言葉ではないかと感心した笑い話だった。

 鎌田先生は「がんばらないが、あきらめない」を医療のモットーにする医師で、実はたんへんな名文家である。ただし政治的イデオロギーは私とは真逆で、前に週刊朝日誌上で「ウルトラ保守オヤジ」として紹介されてしまったことがあった。逢わせてくれた人があって、2度ほど永田町のそば屋「黒澤」で焼酎をくみかわし、患者に対する医師の心構えに敬服した。この人はだれにもわかる平明な言葉で人生の真実を書く文章家でもある。

 その敬愛する鎌田實さんから『大・大往生』(小学館)という新著が送られてきた。

 なんで大往生の上に大がついているのか、それを詮索してもあまり意味がないので省く。とにかく1冊まるごと死について語っている本だった。

 もちろん医師の身辺における死だから日常茶飯事で、ドラマチックなものばかりではない。むしろさりげないエピソードが多いが、だからいい。だから納得できた。

 鎌田先生は小さな町の病院に緩和ケア病棟をつくり、住民とともに「必ず訪れる死」の勉強を続けてきたという。

 ハルさん90歳。ひとり暮らしで乳がんに肺の転移があり、呼吸困難が起きていた。子供はいなかったが、養子縁組をして息子は結婚しやがて子ができた。初孫だった。「血はつながっていないけど、幸せなことにみんな仲がいい」。季節はウリを漬ける時期になっていた。自分はもうウリを食べられないことは分かっているが、「嫁や孫にウリを食べさせてやりたい」。

 ハルさんは酵素ボンベを引きずりながら、必死に歩く練習を始める。「ウリを漬けに帰るぞ」。ハルさんの言葉を聞いて東京の孫も帰ってきた。嫁は家をきれいにしてハルさんを受け入れる態勢をとる。病院では主治医と看護師、理学療法士がつきそうことにし、ハルさんは家に帰った。そしてウリの漬け方をお嫁さんに教えた。

 それから5日ほどしてハルさんは穏やかに亡くなった。ウリを食べるたびに家族はハルさんの優しい心を思いだすだろう。死は決して終わりではないのだと鎌田先生は書く。

続きは正論10月号でお読みください。

■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。