雑誌正論掲載論文

ロシアのラブロフ外相に徹底反論する

2019年03月15日 03:00

北海道大学名誉教授 木村汎 月刊正論4月号

 やくざの世界では、〝善玉〟と〝悪玉〟の役割分担が知られている。〝悪玉〟役が善良な男女アベックを暗がりでいちゃもんをつけて脅迫する。次いで、〝善玉〟役が登場、仲介に入る。「まあまあ、〝面〟を少々切られたくらいで堅気の素人さんを苛めてはいかんだろう」。気弱い青年は、救いの神が現れたとばかりに謝礼金を包んで差し出す。同様の分業は、警察署での容疑者の取り調べでも行われる。〝悪い警官(bad cop)〟が、まず高飛車に脅しを加える。頃合いを見計って、〝良い警官(good cop)〟が訊問を交替し、煙草(ときにはかつ丼)を勧め、自白を獲得する。

 ロシア政治の〝ゴッドファーザー〟プーチンは、右の分業の名手である。対日政策の実施でも、この手法に訴える。かつてはドミートリイ・メドベージェフ(一時、大統領、再び首相)が屡々〝悪玉〟役を演じさせられた。メドベージェフは、プーチンと同郷(サンクトペテルブルク)、大学の後輩であり、同じ役所で机を並べた十三歳下の部下。そのようなメドベージェフは、ソ連/ロシアの国家元首として初めて日本との係争地、すなわち北方領土のひとつ、国後島への上陸を敢行した(二〇一〇年十一月)。この前代未聞の行動は、彼の事実上のボス、プーチンの少くとも暗黙の了解、ひょっとすると直接の命令下に行われたに違いない。

 プーチンは日本政府に次のようなメッセージを発しようと欲したのだ。「ハト派」メドベージェフですら、ことが対日政策となると国後上陸という強硬手段に訴える。そのような対日強硬論者の言動を何とか慰撫し、日本側との間に橋を架けようと努力を傾けている――。これこそが、柔道好き、日本贔屓の自分(プーチン)なのだ。

 メドベージェフ現首相は、最近、豪華な別荘建設をめぐる疑惑やスキャンダルなどで、人気を落している。そういう事情もあって、プーチン大統領のために専ら〝悪玉〟役を演じているのは、主としてセルゲイ・ラブロフ外相といえよう。「主として」とわざわざ修飾句をつけたのは、プーチノクラシー(プーチン式統治)にあっては、畏れ多くもプーチン神御一人のみ〝善玉〟役を果たし、他の全員は〝悪玉〟役を果たさねばならないからだ。

 以下の小稿では、今日、プーチン外交で主たる〝悪玉〟役を演じているラブロフ外相を採り上げ、具体的には次の三つの問題を取扱う。(1)ラブロフ外相による日露平和条約交渉を巡る〝悪玉〟発言の実例を示し、それがいかに国際法無視の詭弁であるかを証明する。(2)同外相がそのような〝悪玉〟を買って出ざるを得ない「プーチノクラシー」の背景事由を剔抉する。(3) 安倍晋三政権がプーチン流「〝善玉〟―〝悪玉〟分担」テクニックにいかに対応すべきかを論じる。

 安倍首相は、プーチン大統領との頻繁な首脳会談を重ねることを通じて、日露間での平和条約交渉を加速化しようと意気込んでいる。同首相のこのような積極的姿勢を良いことにして、ラブロフ外相は、外交官にあるまじき国際法無視の諸発言を行う。その典型は、次の主張である。〈日露間の国境線は第二次世界大戦の結果として既に決定済み〉。根拠として、ラブロフ外相はこうのべる。

「旧ソ連は連合国側に立ち、二〇〇〇万人にも及ぶ同胞の血を流した。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三首脳参加のヤルタ協定に従って、ソ連は(対日戦争に)参加し、その貴重な戦利品として千島列島を占拠し、ソ連邦へと併合した。以来、北方四島はロシアの主権下におかれている」

「この冷厳な事実を、安倍政権がまず認めるべきだということが、日露間での平和条約交渉の前提になる」

 ラブロフの主張を一言で要約すると、〝戦争結果不動論〟の立場といえよう。「戦争が主権の移転、すなわち国境線を決める」という危険な考え方である。これは、北方領土を軍事占拠したスターリンからゴルバチョフにいたるまで歴代のソビエト政権の領土観だった。

 尤も、ソ連時代の〝戦争結果不動論〟は、必ずしも例外を認めない絶対的な原則ではなかった。というのも、ソ連は現実に次のような譲歩を行いもしたからだった。 

 例えば、デンマークのボルンホルム島からソ連軍を撤退させた(一九四六年)。フィンランドにポルッカラ軍事基地を返還した(一九五五年)。オーストリアからのソ連軍撤退にも同意した(同年)。 そして、ゴルバチョフ後にクレムリンの主となったエリツィン大統領は、〝戦争結果不動論〟の立場を明らかに否定してみせた。例えば、一九九一年九月に訪日したルスラン・ハズブラートフ(当時、ロシア共和国最高会議議長代行)に同大統領が託した海部俊樹首相宛ての親書は、次のように明言した。「世界における変化は、われわれ全てを最早や第二次大戦での戦勝国と戦敗国との区別など全く存在しない新しい国際秩序を造り出している(中略)。私は、北方領土論争にたいしては、〝法と正義〟の原則を適用する」。(『産経新聞(夕刊)』、一九九一・九・一〇)。

 ところが、である。日本との北方領土紛争でエリツィン期の〝法と正義〟論を再びスターリン期の〝戦争結果不動論〟へ引き戻したロシアの指導者が現れた。プーチンに他ならない。

続きは月刊正論4月号でお読みください

■ 木村汎氏 昭和11年生まれ、京都大学法学部卒、同大大学院修士課程修了。米コロンビア大学Ph・D。北海道大学スラブ研究センター教授などを歴任し、平成3年に同大名誉教授。著作に「プーチンとロシア人」「プーチン 外交的考察」など。平成28年春に瑞宝中綬章受勲。