評論家 小浜逸郎 月刊正論12月号

2038年 ~居酒屋の片隅で

安木信三 2038年もあと2か月を残すのみになったな。そろそろ君と一杯やりたいと思っていたところだが、ココホ(「ココロフォン」の略)で調べてみたら、君のほうも同じ事を考えていることがわかったので、こうして呼び出すことができた。

 便利な世の中になったものだな。人が考えていることがボタン操作だけでわかってしまうんだから。中国の技術水準はすごい。これでずいぶんコミュニケーションの節約になるし、不要な忖度もいらなくなった。思惑の行き違いも激減するし、嘘をついてもすぐわかるしな。

深堀疑一 俺はどうも時代に乗り遅れるたちでね。端末は一応買ってはみたものの、未登録のまま放り出してある。昔で言えばガラケーにこだわっている状態だな。それにしても、未登録者の考えがどうしてわかるの。

信三 こっちが知人のIDをスマホなんかの端末に登録してあれば、自動的にココホに移行されて利用できるようになってるのさ。

疑一 しかし、いくつか疑問がある。さっき君は嘘をついてもすぐわかると言ったけど、嘘はこの世の中、必要な時があるんじゃないか。大して愛してもいないのにつながりを壊さないために「I love you」と言っておくとか、上司が疎ましくてしょうがないのに指示に喜んで従ってるふりをしないとまずいとか。

信三 それはわかる。でも、相手が何を考えてるかわからないことで、我々はこれまでずいぶん無駄な労苦を支払ってきただろう。愛していないならそのことをはっきりわからせた方がいいし、自分が疎まれていると知った上司は、その理由を確かめて自分の態度を改めることもできる。パワハラもセクハラもなくなると思うよ。もう以前と違って日本の男はみんな去勢されたみたいに優しくなってるからな。

 メンタルな病気にも力を発揮するよ。患者のとりとめない訴えだけじゃ診断が確定できなかったのが、心の中で何を考えてるか調べることで病像がくっきりしてくる。身体医療の検査機器が格段に精密化してきたのと同じさ。

 企画会議だってお互いの本音を知ることで能率が上がるだろう。なかなか発言したがらない日本人にとっては最適だよ。ワーキングマザーが無理をしていないかどうかもわかるから、速やかに対策がとれる。

 国会審議でも、税金使っていつまでも不毛な質疑応答を続けているじゃないか。ココホで閣僚や官僚が考えていることがわかれば、野党も延々と質問を続けずに議題の是非だけを宣明して、あとは採決、これで無駄が一気に省ける。

疑一 ずいぶん人間を合理で割り切るんだな。しかし逆もある。壊さなくてもいい関係を壊しちゃう可能性が大きいだろう。それに人の考えは複雑で、ああでもない、こうでもないと迷うこともある。気分次第によっても絶えず変わるから、これがあいつの考えだと決めつけるわけにいかないんじゃないか。人間の心ってもっとあいまいでもやもやしたものだろう。

信三 それはそうだ。だからココホには、今から何分以内では、というように時間制限機能がついてるし、一人の相手に一日二回までと決まっている。また探索できる思考内容にも制限がつけられてるんだ。しかも受信側に必ず発信通知が行くから探索拒否できるし、決定的なことを知らせるんじゃなくて、あくまでもデータを数値割合で示して推定を下すだけだ。降水確率と同じだよ。最終判断は、我々人間。

疑一 だけどそれを毎日続けていけば、相手の考えてることの推移もわかっちゃうわけだろ。それと権力を持った機関がこれを組織的に利用すれば、行動以前の人の心を全部管理できるだろう。たぶん個人への発信通知などしなくてもうまくアクセスできるように設計できるはずだ。プライバシーなんて無きに等しい。

信三 それはもうとっくに利用されてるさ。我々はデジタル寡占主義国家の住民だから諦めるほかない。もう何十年も前からサイバー攻撃合戦で、表現されたものは個人情報だろうと組織情報だろうと、すべてどこかの国、どこかの機関で傍受されてしまうようになっている。抵抗しようと思ったって、その目標をどこに定めたらいいかわからないし、その方法もわからない。

疑一 みんな飼いならされた羊に甘んじるしかないというわけか。『1984年』みたいなディストピア小説を書く気力も失っていることになるな。でも羊飼いはどこかにいるわけだろ。

信三 複数のな。それもものすごく入り組んでいるにちがいない。誰が羊飼いの頂点に立つか。それは力関係の問題だ。俺たちが手をつけられる領域じゃない。

疑一 羊飼いたちも自分がいつ羊に転落するか、絶えずおびえていなくちゃならない。こういう情報技術の進歩で、我々は果たして幸福になったんだろうか。

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■ 小浜逸郎氏 昭和22(1947)年生まれ。横浜国立大学工学部卒業。幅広い分野で社会評論を展開。現在、国士舘大学客員教授。著書多数。近著に『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)。