雑誌正論掲載論文

絞首刑は宣告できない… 東京裁判判決に反対した判事レーリンクの日記・書簡

2018年09月15日 03:00

産経新聞パリ支局長 三井美奈 月刊正論10月号

 東京裁判(極東国際軍事裁判)で、東条英機元首相ら7被告の死刑を含め、25被告全員の有罪判決が下ってから今秋、70年を迎える。この判決に、インドのパール判事と共に反対したオランダのベルト・レーリンク判事をご存じだろうか。彼が東京滞在中に書いた日記や書簡の内容が、遺族の努力で明らかになった。私は今夏、文書を見る機会を得た。戦勝国として加わったオランダの裁判官が「事後法で断罪すべきではない」と確信する一方、有罪判決を急ぐ同僚や本国政府との板挟みに苦しむ様子が切々と描かれている。

 日記は判事の三男、ヒューホ・レーリンクさん(75)が保管している。アムステルダムの自宅を訪ねると、万年筆の青い文字がびっしり書き込まれたノートを見せてくれた。判事は「記録魔」だったらしく、セピア色の写真があちこちに貼られている。京都の寺社から芸妓、農家の母子まで様々だ。ヒューホさんは「父は敵国出身のため、日本人に憎悪されると思っていました。しかし、東京ではどこでも温かく迎えられて驚いた。日本や日本人に触れ、深い愛着を抱くようになったようです」と話した。190センチ近い長身は、父親譲りだ。レーリンク判事は1946年初春の来日時、11人の判事団で最年少の39歳だった。

 東京裁判で、死亡した2人と精神障害で免責された大川周明を除く全被告有罪の判決は、米英やソ連、中国などの「多数派」判事が執筆した。レーリンクはこれに反対する意見を提出し、「平和に対する罪」(侵略の罪)は事後法であり、侵略戦争の共同謀議による広田弘毅元首相の死刑判決は不適切だとする立場を示した。広田、重光葵、東郷茂徳の3人の外相経験者、さらに木戸幸一元内相の文官4人を含む5被告の無罪を主張した。

 東京裁判といえば、日本では「全員無罪」を主張したパール判事ばかりがもてはやされる。反植民地主義という政治色が強いパールに比べ、レーリンクは国家指導者の戦争責任を当時の国際法でどこまで裁けるかに焦点をあてた。東京裁判はニュルンベルクに続く史上二つ目の戦犯法廷で、国際法の根拠は脆弱だったからだ。戦犯法廷がこの後、旧ユーゴスラビアやルワンダの国際法廷、さらに常設の国際刑事裁判所につながったことを考えれば、レーリンクのアプローチはパールよりも国際法の発展に貢献したといえるだろう。

 東京裁判ではレーリンク、パール、さらにフランス出身のベルナールの3判事が多数派判決に反対する意見書を出し、米英主導の「勝者の裁き」の正当性を揺るがした。

 レーリンク資料のほとんどはハーグの国立文書館が所蔵するが、日記や家族あて書簡は遺族の手に残された。非常に細かいくせ字で、紙面にびっしり芋虫が這っているようだ。オランダ人でもなかなか読めない。ヒューホさんが近年、父の回想録を出版するために解読したものをパソコンで活字化し、それで詳細が分かった。

 西欧の植民大国オランダから来たレーリンクはなぜ、ほかの戦勝国判事と対立しながら、反対意見を貫いたのか。日記や書簡には、心の軌跡が刻まれていた。

 日記をめくりながら、最初に目にとまったのは、被爆間もない広島の写真だ。1946年3月末、噴火中だった鹿児島県桜島の視察に向かった際、上空から被爆地を見て息をのんだ。「大地は真っ平らだ。建物は少ししか残っていない。荒廃した悲惨な土地だ。ほかにもっとよい運命があったろうに」。空撮写真には、真っ黒に焼け焦げたかつての市街地が広がる。「もっとよい運命があった」という一文に、「原爆投下は本当に必要だったのか」という疑問がこもる。

 飛行機はこのまま桜島に飛び、噴火口の上空を五回旋回した。流れ出る溶岩を見ながら、レーリンクは戦争と平和を考察した。「大地は人間のようだ。表面上の平和は一時的なバランスの均衡にすぎない。その下では、異なる力が働いている」。この冷めた視線が、「勝者の裁判」に対する疑念につながったのだろうか。

 マッカーサー元帥との出会いの記述も興味深い。レーリンクは来日後、ほかの判事と共に昼食に招かれた。貫禄ある風貌に接し、「印象的な男だ。軍人というより、国の政治家、あるいは重要な法律家や学者のようだ」と評した。マッカーサーはもっぱら原爆について語ったらしい。

 日記にはこうある。「日本で使われたもの(原爆)より、千倍強力なものが製造されている。…世界が滅びてしまうと懸念されている」。マッカーサーは、米国を滅ぼすには原爆が何個必要かを計算してみせた。「70個。6カ月間で、人口の3分の1が壊滅する」。一緒に食事をしていた判事たちの引きつった表情が目に浮かぶようだ。

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■ みつい・みな 昭和42(1967)年生まれ。一橋大卒。読売新聞パリ支局長などを歴任。平成28年、産経新聞に入社。昨年10月から現職。