雑誌正論掲載論文

北村晴男が憲法改正を語る

2017年09月25日 03:00

弁護士 北村晴男 月刊正論10月号

 私のふるさとは更埴市―現在は千曲市という名前になりましたが―で長野県北部の善光寺平にある風光明媚な盆地です。真っ白になった北アルプスを背にして田園地帯にあんずの里が広がり、あんずの花が満開になると、信州にもようやく春が訪れる、のどかで穏やかな街で私は生まれ育ちました。何しろ犯罪も滅多に起こらないような静かな街です。身の危険を感じながら暮らす、といった経験は全くありませんでした。

 そんな土地でのんびりと育ったせいだと思います。私が学校で日本国憲法を習った時も、素直に「これが理想の社会であり理想の日本なのだ」と受け容れました。前文にしても、「戦力を持たない」とする憲法9条にしても何の違和感もなかった。それが正しい国の姿なのだと信じていました。しかし、徐々に成長して社会の仕組みを知り、世界の歴史や実情を知るようになると、日本国憲法はこのままで果たして大丈夫なのか、と考えるようになりました。

 私にとってそうした考えが確信に変わる機会となったひとつが平成二年のイラクによるクウェート侵攻でした。のちに湾岸戦争に発展していく切っ掛けとなった事件ですが、他国からの侵略に備えることの大切さを、「平和ぼけ」の我々に教えてくれるような事件でした。この時、日本は多国籍軍の活動に合計130億ドルもの資金協力をしました。莫大な金額です。当時はまだPKO法など出来ておらず、自衛隊が海外で活動することなど憲法で許されないという空気でした。日本は多国籍軍に協力はするが、自衛隊を出すなどもってのほかで、だから資金面のみで協力する、と当たり前のように議論されていたのです。

 ところが停戦後、クウェート政府が「ワシントン・ポスト」に出した感謝の広告に協力国として日本の名前はありませんでした。国際社会の信頼を得るには資金協力だけではダメなのだという、それまで戦後の日本が採ってきた対外政策の根底にNOを突きつけられるような出来事でした。日本国憲法のもとで続いてきた、経済を軸にした日本の対外政策の限界、綻びは明らかで、根本的な見直しが必要と思われました。

 それに湾岸戦争ではクウェート、イラクに在留していた二百人以上の日本人が人質にされました。同じように自国民が人質となった場合、世界中の国々は国民を助け出そうと奔走します。ところが日本だけは憲法上の縛りから自衛隊機ひとつ派遣できません。常に有効な手を出せずに取り残されてしまい右往左往する。こうした光景が繰り返されるたびに果たして日本はこの憲法のままで大丈夫か、と不安を感じたのは私だけではないはずです。

《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》

 これは憲法前文の一節です。そして第9条には

《第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない》とあります。

 私自身も小、中学生のころ、理想だと思えたものですが、国際社会の現実に照らしながら冷静に考えてみると、全ての国が信頼に足る国でなければ到底成り立たないものです。壮大な実験と言う人もいるが、現実を直視せずに、国民を危険にさらすものと言わざるを得ません。

 日本の周辺を見渡してみましょう。北朝鮮はいつ日本に向けて次のミサイルを撃ってくるかわからない状況です。中国は中国で大軍拡を図りながら、尖閣諸島を「核心的利益」といって虎視眈々と狙っています。さらに、沖縄についても自国の領土だと公言し、フィリピンとの関係における国際法無視の姿勢は確信犯です。憲法前文にある「平和を愛する諸国民」と言えるのか、とてもじゃないけれど「公正と信義に信頼」することなどできない状況です。

 憲法が制定された当時、9条に示されたわが国の姿というのは平時はもちろん、自衛戦争のための軍隊も放棄し、特定の軍事同盟にも加盟しないとする「非武装中立」であったものと思われます。

 ですが、この「非武装中立」がとんでもない間違い(空想)であることは、日本国内では遅くとも1960年代までに既にほぼ社会全体が気付いていたと思うのです。

 1959年12月16日には、最高裁が砂川事件判決を出します。砂川事件とは東京都砂川町付近にあった在日米軍立川飛行場の拡張に反対する砂川闘争における一連の訴訟で、憲法9条に照らして、自衛隊や日米安保条約が憲法違反なのか否か、などが争われました。

 判決では「憲法第九条によりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されていない」旨述べ「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」「(我が国の防衛力の不足を補うものは)国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」「憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」と明確に述べています。

 つまり、憲法9条はあるけれども、国の存立のために必要な措置は当然講じることができると言っているわけです。これは非武装中立からの大きな転換を意味します。東西冷戦もあり朝鮮戦争も起きた、そういう状況ではさすがに非武装中立ではまずいと日本国民の大部分が気付き、最高裁は日本国憲法が決して無防備、無抵抗を定めたものではなく、国に自衛権があること、自衛の措置を講じ、日米安保条約を締結することが憲法に違反しないことを明確に示したわけです。

 最高裁がこう述べるのは当然です。しかし、「戦力を持たない」、「武力を行使しない」とするのみで、国を守るために何ができるかと具体的に書かれていない憲法は、残念ながら重大な欠陥を持っていると言わざるを得ません。

 一昨年の平和安全法制の議論の時もそうでした。独立国家であれば日本も集団的自衛権を行使できないはずはありません。当然ながら、国連憲章も全ての国に認めています。しかしながら、今の憲法の下では、非武装中立論の幻影が憲法学者などの頭に深く刻み込まれているため、集団的自衛権の行使―私は、砂川事件の判決に照らしても憲法9条に違反するものではないと考えています。そして、国際情勢の変化に照らして、内閣による憲法解釈の変更は、当然のことだと思っています―について憲法違反だとの議論が必ずといっていいほど現れるわけです。

「集団的自衛権」というのは、人類の知恵の結晶です。個別的自衛権しかなければ、世界はどうなるか。国がたくさんあり、国力に大きな差がある以上、大国―もちろん経済力もあって強大な軍事力を持ちうることを意味します―はやりたい放題で、経済規模も小さく軍事力もわずかしか持てない小国は全て大国の言いなりにならなければいけない。そうでなければ国が侵略され、消滅する運命をたどることもある。そういう世界がつい最近まで続いてきました。

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■ 北村晴男氏 昭和31年、長野県出身。早稲田大学法学部卒業後、弁護士となり日本テレビ系の法律・バラエティ番組『行列のできる法律相談所』でレギュラー出演。現在、メルマガ「言いすぎか!!弁護士北村晴男 本音を語る」 まぐまぐ!にて配信中(http://www.mag2.com/m/0001674128.html)。